お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

口内炎

 人生の中で必要でないものというのは星の数より多い。必要でないものはいつだって我々の行く手を阻む邪魔ものだ。当然、我々はそれを廃棄する。捨てられるのはいつだって不必要なもので、必要なものは手の届く所のに置いておく。後者まで捨てようとする人間は、狂った断捨離魔か世俗を離れた修行僧くらいだろう。しかし、口内炎はその限りではない。頼んだわけでものないのに、彼らは雨後の筍如く湧いて出る。右の口内炎治れども、すぐさま左に現れる。右頬を殴られて左頬を差し出すキリストくらいの聖人でなければ、この憎き白斑点どもの行いは看過できない。

 少し話がズレるが、「痛み」とは何のためにあるのだろうか。別にアンパンマンの歌を歌ってほしいわけではない。少なくとも愛や正義の為にあるのではないのだから。

 さて、読者の皆さんが哲学方面に弁を述べる前に私なりの答えを言うと、「痛み」とは身体からのメッセージだ。理系の方々だと堅苦しい表現でスマートに述べるのであろうが、悲しいかな私は文系、回りくどくいかしてもらおう。

 メッセージとは詩的すぎるとの指摘は待ってもらおう。あと、その洒落にもだ。その表現はあながち間違いでなく、身体が何かしらの問題を孕んだ時に我々の心、つまり脳へとその信号を送る。我々はそれを受け取り、安静にするなどの対応をする。生命誕生からはや36億年、これほどまでに高度なシステムは宇宙広けれど、そうそう構築されていないであろう。せっかくならば「イタイヨ~」だとか「タスケテ~」、「シヌ~」と直接脳に送って欲しいものだが。そして、これらのメッセージは我々が対応して初めて意味を成す。こころとからだの共同作業なのだ。

 さて、そろそろ話の本質を突こう。口内炎の痛みはキャッチボールでない。剛速球を投げつけてくるだけ、大谷もびっくりなスピードでだ。かさぶたのような蓋をしてくれるならば、食事の経路を変えよう。粘膜を出すなら、強いうがいを避けよう。しかし、奴らがとった手段はあろうことか患部を露出させるだけだった。そして、露天掘りでも始めたのかと思うばかりの穴を作る。我々は痛みに涙を流すばかりで、何もできない。文字通り、泣き寝入りだ。

 口内炎の存在は人間という生体のシステムにおけるエラーであり、人類が完璧な生物になれない足枷であることを、ここに記す。