お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

逢魔が劇場 【微ネタバレあり】

 桜が舞い散る様を傍目に、眼前に広がるは人のゴミ……。8両編成の列車がけたたましく車輪と線路の間にノイズを産む。ストレス値が指数関数的に伸び続け、視神経と繋がるシナプスが瞬間点結合体をY軸と平行と勘違い始める。

 脳は心の平穏を求め眼球周りの筋肉に電気信号を送る。その時、ふと眼前の男の背に焦点が合う。ちょっとしたアニメイラストが拵えられた服がそこにはあった。そして、山折り谷折りとアイロンの重みを感じさせない着こなしがその男の粗雑さを垣間見せた。

「だから何だ・・・。」

 好きなアニメが被ったところで他人は他人、ましてやこんなところで育まれる友情なんてありえないだろう。土壌のpHが低すぎる。ただただ過行くパノラマは、いたずらに私の精神を蝕んでいく。ただ、それだけ……。

 

 景色は流れ、4次元的な移転が起こる。窓外の映像美は、鄙から都心に移ろいで行く。ストレスが上昇すると言えど、やはり帰路では心が穏やかに、ちょっとしたトランス状態に陥る。精神が上位存在と出世を果たし、ちょっとやそっとの人間の愚行を看過できる。

キィーーーーイィーーィッ、ドンッ!

 緊急停止。

 それはいい。ただ、今の衝撃を好機と見たオバンがただでさえ窮屈な満員電車で半歩以上……、私の領域を侵犯してきた。そして、あろうことかスマホを取り出し、奴の前方の領土を強固な塀で取り囲んでしまった。

 助けて、ライナー!!という叫びもむなしく、白馬の鎧の巨人様は訪れない。こればかりは、私は悪くない。悪い奴……、車掌、オバン、大学、日本社会 etc.

 一瞬でトランス状態が解けてしまった。ネタ晴らしがやたら早い。夢なら、この悪夢まできちんと覚ましてほしい。

 

 ようやく、人蠱のフードプロセッサーから生還を果たし、母なる大地を踏むことが叶った。天を仰ぎ喜びを噛み締め、地を見下ろしもう暫くの地獄を直観する。ゴミはまだそこに広がる。もったりとした集団移動は、内なる個を暴れさせる。だが、それを赤子のように理性で抑えられないようのであれば、人間として未完成のポンコツ、スクラップが丁度良いであろう。所々にスクラップが転がりはしている。

 しかし、視線を下した時に目の端で既視感が仕事した。覚えているだろうか、さっきのアニメプリントTシャツ君を。彼がどういう因果か、再び目の前にいた。いや、本当に彼なのだろうか。というもの、私は他人の生得IDパス、つまり顔を覚えることが苦手なのだ。つまり、アニメプリント君は先程の君であるのか、その判断材料が彼のシャツからしか行えない。同Tの別人である可能性もあるのだ。だが、ここで一つある認識論を得た。彼は同一人物であるということだ。

「?」

 まあ、そのクエスチョンマークをしまってほしい。別に私は何の考えも無しにアニT君が同一人物であると述べてるわけでもないし、そもそも彼だけについて述べたわけではない。私が論じたいのは、哲学的な高度な内容だ。

 私たちは普段生活する中で、視界に人間を捉える。これは嫌でも入り込む。飛蚊症よりも不快なものだが、それはしょうがない。視界で認識できる範囲は限りがあり、ここへの人強いに至っては1000人程度であろうか。つまり、私たちは一度に全ての人類を視認している訳ではない。過去現在未来を繋ぐ時間軸上で、整合性が取れる形で認識世界を広げているにすぎず、昨日見た人と今日見た人、なんなら数時間以内に出会った人全員を分けて認識していることは無い。これらの事実から私が言いたいことは、視認可能人数を使いまわすことで世界を形成しているのではないかということだ。

 例えば、君が街中を歩いているとしよう。人の往来の中、同行している人間でもない限り視界内で存在し続ける人間はいないだろう。では、視界から消え失せた人間のその後は知ることが出来ているだろうか。いや、そんなことを気にすること自体がないだろう。そう、同一人物が別人物を演じたとしても。

 視界内に捉えようが、認識しなければ未使用と同義だ。認識をしようが、脳の前頭葉に深く刻まなければ、次の日にでも存在自体忘却の彼方であろう。認識しないのでは、勿体ない。じゃあ、使いまわせばいい。

 認識の程度に合わせて、使いまわせばいい。顔と服装を少し変質させ、舞台裏を通り次の出番まで楽屋で待とう。世はまさに、逢魔が劇場。お客は一等席に、私がふんぞり返る。視聴者参加型の大規模劇場。役者は多くても1万人程度。クビになれば、存在や生きた痕跡すらも蒸発してしまう。

 これを見ている君も、役者の一人であろう。もっとも、私が認識すればだが……。