お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

人と鮎の近似領域

 『いつもの』という言葉が好きだ。その言葉を吐くだけで、今ここにいる自分が過去からの連続性の上で成り立っていることを自覚できるし、俺の『いつもの』を知らないだけの他者に優越感にも似た感情をぶつけることができる。

 駅から続く大通りから路地に入り、二、三回曲がったところにそれはあった。ショーケースに閉じ込められる感覚を味わうこととなるカフェチェーンとは異なり、店の壁は重みとその存在感を際立たせるレンガ造りとなっている。まさに秘密基地といった具合だ。

 扉を押すと年季を感じさせる鐘がカランカランと優しく響く。それと同時にコーヒーカップ片手に微笑んでいる知り合い、Nの姿を認めた。

「やあ、L。久しぶりだね」

 無視して別の席に座ろうとすると、要らない気を利かせたマスターがNの隣に誘導してきたので、仕方なく彼の隣に座った。

「で、何でここにいるんだ?」

「何でってさぁ、玄関が空いている建物はどこもウェルカムってことだろう? つまり、僕は招かれるべくしてここに来たってことさ」

「住居不法侵入の文字列と共にお前がテレビに映る様が容易に想像できたよ」

 コイツとは同じ言語を用いているのに話が通じない。そんな人間の存在はインターネット上の御伽噺だけだと思っていたが、どうやら違ったようだ。

「マスターいつもので」

 隣の異物は無視して、俺は自分の世界を廻り始める。この道は俺の足跡しか残っていない。それを再び踏みしめることで、巣に籠るにも似た安心感を得られるといったわけだ。

「『いつもの』ってさぁ、人生が『いつもの』の連続なのに勿体なくない?」

 Nが俺の道に横入りをしてきた。ムッとは来たがここで取り合っては相手の思う壺なので、「お前の日常は大きく針が振れるようだな。明日には地球の裏側で銃撃戦でも嗜んでいるのか?」と言って、少し子馬鹿にしてやった。

 しかしNは、「鋭いね」と言葉を漏らしコーヒーを啜った。

「鋭い?何が鋭いって言うんだ?」と素直に疑問をぶつけた。

「ん?あぁ、日常の捉え方かな。僕は好きだよ、そういう考え方」

「日常の捉え方?」

 ますます意味が分からない。

「君は日常を本来針が大きく振れない、振れるべきでないものとして見た。『日々』の『常』なわけだからね。そう振れるべきじゃない。だけど、それに気づかない人も多いんだよ。なにせ世の中はグローバル化で、非日常と接する機会に溢れているからね。」

「つまり、アレか?薄い板を見ながら闊歩する連中は自分たちが非日常の中にいると錯覚していると、そう言いたいわけだな?お前は」

「それだけじゃないけどね。まあ大体そんな感じかな」とNは欠伸して言う。

 癪ではあるが、Nの言うことには納得できる。SNSで数秒の動画を見ただけで、自分が異質な世界の住人になったように感じる。実際のところはスマホを見ている自分が、日常の中に取り残されているというのに。

 マスターが俺の注文の品、つまり『いつもの』を作り終え目の前のテーブルにそっと置いてくれた。ミルクの量、角砂糖の数、余計なことは一つも聞かない。この心地良さに金を払っていると言っても過言ではない。

 そんなことをしみじみと考えていると、左からちょいちょいと肩を叩くNが「まさかびっくり奇遇だねぇ」なんて言う。

 奴の方に視線を向けてこなかったがどうしたことだろう。コイツの前のテーブルに並ぶ品々は俺の『いつもの』と寸分違わず一緒のものだった。

「それが君の『いつもの』だったわけだ。ごめんね。お邪魔させて貰って」とにやけ面でNが続ける。

 邪魔だと思うのなら、帰ってほしい。自分の布団の上に土足で寝そべられた気分だ。

 そして俺の気持ちなど蚊帳の外で、Nがさっきの話の続きをする。

「でね、僕が言いたいのは僕たちの日常や時間軸を加味した人生においても、そこまで遠出をしていないということなんだ。僕たちは非常に狭い世界で生きている」

「だから俺の『いつもの』は狭い世界をさらに狭める愚かな行為だととも言いたいのか?」

 俺は厭味ったらしく返したが、聞き流された。コイツは話始めると止まらないらしい。

「人は日常の世界と言っても複数の選択をこなして一日を終えるから絶えず変化があるように感じる。だけどね、そんな選択は常識という凝り固まった殻から飛び出すことなんて滅多にないんだよ。みんないつも安全牌しか切らない。結局人の世うん十年、あっ今は人生百年時代だっけ? まあ、何年経っても同じさ」

「じゃあ、今から宇宙人が襲来してきて地球を侵略するとかを毎日考えてるオッペケペーが、視野の広い人間だとでも言うのかよ」

「それいいね。僕も毎日そんな感じのことを胸に、床に就くよ」

 どうやらコイツがオッペケペーの代表らしい。

「そうやって『いつもの』を摂取し続けた人間はどうなると思う?」

「どうって、安心の老後でも手に入るんじゃないか」

「安心……。君はいつも鋭いね。」何故か褒められた。

「そうした人間はね、そうした日常を自分たちの巣と錯覚するのさ」

「巣?」

 俺はそう返し、珈琲と一緒についているラズベリーソースの掛かったパンケーキを一口大に切り分けて口に放り込み、珈琲を啜る。珈琲はもう大分ぬるくなっていた。

「巣。そう巣。例えば君が行きつけのこの店も君にとっては巣みたいなもんだね。探せば君の卵でも転がってそうだ」

「気色悪い例え話はよせ」

 食事中の相手に言うような内容ではない。

 時間は午後2時を回ったようで、店内から客がぽつりぽつりと減っていく。早く俺もこの状況から抜け出したいが、コイツの話は止む気配がない。

「いいかい、L。自然界で巣を守るために動物は何をするか、分かるかい?」

「何って……そりゃあ、巣を丈夫に作るんだろ」

「攻城戦とかだとそう考えるね。極めて人間的だ」

 今回は不正解を引いたようだ。コイツは一つの正解の上で話を進めるきらいがある。

「L。君の考えは別に間違っちゃいないんだよ。巣を守るために巣を固くする。隠す。移動式にする。どれも立派さ。だけどね、これらは巣の問題だ。一次的なんだよ」

「一次的?」

「人間で言うなら、生まれもった身体、そしてそれに付随してくる要素の全てさ。先天的とも言うね」

 巣の話だったり、動物、人間の話だったりと、一体俺はどこに感情移入すればいいのかわからないが、パンケーキを平らげることはできた。

「僕が言いたいのは二次的な話。巣を守るためにどうするかは、人間が自分という存在を守るためにどうするかということ。」

 Nが組んでいた足を組み換え、こちらに向き合い直す。

「改めて聞こう。君なら敵から自分の心を守るためにどうする?」

「どうって、無視だ無視。自分の心の中には一歩たりとも踏み入らせないのが一番だ」目の前にいる男のことを思い浮かべると、答えはあっさりと出た。

「それだよ」

 Nにそう言われると、先程の発言を思い返してコイツの手のひらの上で踊ったような感覚に襲われる。

「敵を排除するってことかよ。クソ」

「正解」Nはにやけ面でそう返す。法が許すのならぶん殴っているところだ。

「いつもの空間から異質なものを排除する。みんなやっていることさ。人間は他の生き物よりかは温厚かな。殺すまではいかないからね。だけど、警戒だけは欠かさない」

 コイツの話の道筋は見えてきたが、意図は未だに読み取れない。先刻から長針が反対方向に回れば、いつのまにか店は俺達二人の貸し切りとなり、コイツの有難い説法だけが静かに店内をこだまする。

「N、それの何が悪い。人は自分の日常を守るために人生を費やすもんだろ。それを妨げる奴が出るってんなら、当然はねのける。それとも何か? お前は右頬をぶたれて左頬を差し出す神の子の真似事でもしたいのか?」

 俺は煮え切らないNの話と店内の物寂しさに耐え切れず、少し感情を込めてしまった。しかし、Nは相も変わらずすまし顔で返してきた。

「僕はその現状を愚痴ってるだけさ。非力な僕には何も変えられないからね」

 ここまで来て無責任なことをNは口走る。

「僕は憂いているんだ、人類の可能性が潰えることを。日常という縄張りを守るためにしか動けない人々は、自分を変えんとする異物を相手にしない」

「だけど、人はそんなんでもここまで進化してきただろ。毎年ノーベル賞なりを獲る学者先生が新しい発見もする。これ以上何を望む?」

 Nは静かな眼でこちらに一瞥をくれ、そして続けた。

「君は鮎という魚を知っているかい?」

「鮎ってあの塩焼きにすれば美味しい川魚だろ?知ってるよそれくらい」急な話の転換に戸惑いはしたが、普通に返した。

「そう、その鮎だ。彼らはねぇ、とても縄張り意識の強い魚でね、他の鮎が自分の縄張りに入って来ると徹底的に排除しようとするんだ。その一方で、群れを作ることもある。自分の利益に合わせて生き方を変えるんだよ」

「ふーん、現金なこった」と珈琲を飲み干しながら返す。時計を軽く確認して、席を立つタイミングを窺うが、Nの話は途切れない。

「僕はね鮎と人、とっても似ていると感じるんだよ。」

「それは良い。神様が大洪水を起こしても殺しきれなさそうだな」

 Nは、「面白い冗談だ」と言うが、コイツの話の方がよっぽど面白い冗談だ。

「群れたり、離れたり。節操がない。そして、目の前の現象に何の疑問も持たない。知ってるかい、鮎の漁獲方法を。彼らは友釣りといって同胞をおとりにすると、縄張り意識から攻撃を仕掛けて、まんまと針にかかるんだ。人間もきっと同じ目に合うと思うよ、僕は」

「じゃあ俺はお前に突っかからない方が長生きできるな」

 そう返した俺に、「君のそういうところが好きなんだ」と返してくるもんだから、コイツはそっちの気があるのかもしれない。

 マスターが俺のカップが空になったのを見て、「おかわりいかがですか?」なんて言うもんだから、普段から良くしてもらっている手前無下にはできず、もう一杯の珈琲が運ばれてきた。コイツの話から逃れるタイミングをあっさり失った。

「つまりさ。僕たちはどこまで行っても日常の檻の中で見えるものしか見てないんだよ。いつこの世界の人間の上位存在が罠を張るかも考えずにね」

 Nの話に熱が入ってきた。

「だけどよ。想像力を働かした所で次元を超えた存在には及ばないだろ? 漫画のキャラクターは作者を越えられないといった具合によ」

「そうだね。話は少し戻るけど非日常を求めて、画面に飛び込むけど飛び込めない話をさっきしたね」

「あぁ、そうだな」瞳を左上に、四半時前のことを思い返す。

「アレはそもそも提供された非日常すらも日常の産物だったわけだよ。人間が得られる体験はどこまで行っても日常を越えられないのだから、材料なんてたかが知れている」

 話は佳境に入ったようだが、結局Nが何を言いたいのか底が見えてこない。陽は傾き、店の小さな窓からもその姿を拝めるようになっていた。

「それでさぁ……L」

 Nがこちらに向き直る。整った顔立ちが西日に照らされ、その造形を鮮明にさせる。

「僕はこの世界を上位存在によって形作られていると捉えることにしたんだ。所謂、メタ認知って奴さ」

「仮にその存在を認知しても、知覚も出来ない。意思の疎通なんてもってのほかだ。そんな行為に何の意味があるってんだ?」

 至極まっとうな返しだと思う。向こうにいる奴らが俺たちの言うことに聞く耳を持つかもわからないのに、それに話しかけるなんて不思議ちゃんもいい所だ。

「いや意味はあるさ。さっきから言うように創作物は作者の日常を越えられない。ファンタジーにしても本質は日常から作られてて、非日常的要素は他の非日常のパロディか日常からの願望に過ぎない」

「だから、この俺たちの世界も上位存在の日常の上で成立するから、奴らへの働きかけは奴らにとって意味あるものってか?馬鹿馬鹿しい」俺は鼻で笑い飛ばす。

 すると、Nは4つある天井の角に順番に手を振り始めた。なんだコイツ怖い。

「この世界を覗く窓があると思って手を振っているんだ」なんて言うもんだから尚の事怖い。

「まぁ、どんな感じで僕たちが形作られているかは分からないけどね。それでも僕の発言の中で一つでも面白いと思ってもらえれば、それはきっとこの日常を壊す非日常を生むと思うんだ」

 これ以上コイツの話を聞き続けるとおかしくなりそうなので、残っていた珈琲を胃に流し込み、今度はさっさと席を立って会計を済ませる。

「ねぇねぇ」Nが去り際の俺に話しかける。

 俺はぶっきらぼうに「なんだ?」と答える。背は向けたままだ。

「今回の話で気に入ったのはコレだったみたいだよ」

 そう言うNの指す先は俺がさっきまで座っていた席で、丸く透明で湿った物体が積み重なっていた。

 踵を返し近くで観察してみると、生臭い。どうやらこれは魚卵のようだった。

 はたと思い自分の尻の辺りを触るとどうも濡れている。まさか、いやしかし……!?

「俺が……産んだのか…………?」

「日常を楽しむ君の縄張りには、卵がやっぱりあったみたいだね」

 

 

エリート君とツッパリ君

 学生という存在の持つ熱量の変遷は、表面上だけ見ても顕著であり、ゆとりを超えたさとり世代と呼ばれる者共に至っては、無機質なコンクリートを思わせる様相である。私のようなひねくれ者は、いつの時代も持ち合わせる熱量を全て言葉として残しており、それなりに発散するものだが、外的に発散してきていた連中はどこへ行ったのだろうか。

 近年の社会的風潮では、先天的な内容から人を判断するのは嫌われる傾向にあるが、かと言って全く考慮しないのも正確ではないだろう。生まれつきの性格、性質、環境、交友関係、この辺りの構成要素から人は人生の進路を決定する。今回の話のテーマは学生の熱量であるから、ここの要素からその熱量をどのように扱う人間になっていくかを考える。そうする中で昭和後期から平成初期の学生は、エリートと非エリートの熱量の発散の形が類似していることに気が付いた。

 まずはエリート階層、つまり世間的に見ても良いとされる学校に通う層だ。この層は、優等生であるのだから熱量は全て"学"に注いでいるのではと思いたいところだが、そうとも言い難い。彼らの一部、時代によってはその多くが学を持ち合わせ、情報を取り入れ、自分で思考できる能力を有していることから、社会の方針との食い違いにより、社会を相手取った反抗を起こす。要するに、学生運動の勃発である。学生運動は「知」と「暴」のダブルパンチであり、熱は増幅し、烈火のごとく燃え上がる。ここでの熱量は集団の結びつき、規模の拡大と共に個人当たりの熱量の加算ではなく、乗算的に増幅する。そして、その熱に充てられた学生が次々に参加していく。そうしていくうちに、一人当たりの熱量は青天井となる。

 次に非エリート階層、分かりやすく言うと落ちこぼれとされる層だ。落ちこぼれは、社会というステージから落とされた、或いは自ら進んで落ちた学生の集まりで、そうした奴らは集団を形成し、ヤンキーとなる。この時点で分かるとは思うが、つまりヤンキーの行動原理も学生運動と同様に社会への反抗な訳だ。そうした点で、住む世界は違えど両者は非常に似通った集団であると言える。

 これらの学生の熱量発散方法は褒められたものではなかったが、熱量が両者とも増幅している点で活気にあふれたものと言えよう。そして、彼らの活動は"直接"社会へ影響を及ぼすものであったため、必要悪な役回りであったとも考えられる。

 では、現代の学生の熱量の所在は何処か。創作物や文化の影響を強く受けていた学生運動、不良集団はメディアが垂れ流すドラマや漫画、小説等で徐々にそのスタイルが軟化させられていることに気が付けず、従来のスタイルを時代遅れとし、ギャル男やビジュアル系といった、なよなよしたヤンキースタイルの確立、学生運動は通信技術の発達により、ネット上での悪口合戦に留まっている。そして、両者とも同種間の繋がりが薄れていき全盛期ほどの熱量を生み出すことが困難となっている。

 ここまで書いてきて、昔のスタイルを肯定するつもりはないが、現代のスタイルはもっと否定したものであることは伝わっただろう。社会に適応する層の同じだけの社会に対してツッパリ、自分のスタイルを貫く層の存在がいるだけで、社会に刺激を与え、現状の改善、そして更なる発展に繋がっていくのでないだろうか。…まあ、私はいつの時代にもいるただの批判的傍観者ではあるのだが。

徒然アソシエーション

 徒然なるままにひぐらし

 これを枕詞に、己の心の有様を飾らずに描き、一つの物語として完成させた吉田兼好は上手くやったものだ。あれもこれも、99%の才能と1%の環境によるものであるのだろう。

 現代、いや現在人の私にとって創作はとても不自由なものだ。己が敷いた枷に雁字搦めで、指一本動かすことすらままならない。日夜、種種雑多な作品が電子の海に投げ込まれていき、その数は衰える所を知らない。そして、ジャンルによる嗜好の違いが存在するものの、根本的な良し悪しは見え隠れしている。誰にしてくれと頼んだわけでものないその批評は、自身に先導して行われ、その稚拙な正体を赤裸々にする。もちろん、自分の作品もその対象である。

 創作物への評価は、他作品を知ること、構成における慣例を知ること、社会の風潮を知ること、自身を知ることでその形は十人十色に変化する。他人と自分、もちろん他の第三者との間においても、その評価が一致することはない。そこが創作の楽しさであると同時に、心の葛藤を生み出す要因なのである。

 私は創作の時に心掛けているものとして、面白さに重きを置く。どんなに高尚な作品であろうと、どんなに奇跡的な事象が重なって生まれた事実であろうと、他者に見せる以上エンタメな訳であり、開始三行が退屈なおフランスの自慢話であれば誰もがページを繰る手を止めるであろう。その根幹があるからこそ、自身の拙い創作観でも創作が出来ている訳だ。問題はここで言う面白さを、本当に形作れているかという点である。

 もちろん、描いているときは面白いと思って書いている。しかし、集中が切れたタイミングで自動アップデートのように評価が始まる。構成に無理は無いか?他者のネタと被っていないか?倫理的にマズイものではないか?テクニカルな作品であるか?毎回だ。毎回のようにこれが起こる。面白さだけを求めて描く世界もこうした評価観点で縛られてしまうと、途端に手が止まる。それ以降の柔軟性は失われ、箱詰めの物語が始まる。結果、完成した作品は序盤の勢いを喰い殺された哀れなものとなる。

 こうなる原因は、自分の中で大体見当がついている。それは、知識の吸収方法の誤りにある。よりよい創作を行うため、私は今まであらゆる情報に目を通してきた。知識量で言えば、創作をあまり行わない人よりはある方であろう。しかし、それらの知識を吸収すると同時に、どう区分して記憶するかどう扱うか、この二点を考慮していなかったのだ。どんなに優れた武器であろうとも、その扱い方を知らなければ獣を狩ることはできない。かえって、その扱えない武器にばかり気を取られてしまい、目の前の獣から目を逸らしてしまう。獣を狩るどころの話ではない。

 知識が創作を縛ってはならない。現在の私の有様は、「創作は自由である」とした私の信条に反する。あくまで知識は創作の導き手ではない。創作された道を整備するためのものなのである。いつの間にか誤った扱い方をしていた自身の愚かさを恥じ、猛省する。ってかこの話し方も自由な創作では必要ないと思う。もっと自由に、もっと楽しく。いつの間にか忘れていた感情をここに取り戻そう。ペンを握る手はいつまでも歩みを止めることはない。いつかの兼好に思いを寄せて、徒然なるままに…。

逢魔が劇場 【微ネタバレあり】

 桜が舞い散る様を傍目に、眼前に広がるは人のゴミ……。8両編成の列車がけたたましく車輪と線路の間にノイズを産む。ストレス値が指数関数的に伸び続け、視神経と繋がるシナプスが瞬間点結合体をY軸と平行と勘違い始める。

 脳は心の平穏を求め眼球周りの筋肉に電気信号を送る。その時、ふと眼前の男の背に焦点が合う。ちょっとしたアニメイラストが拵えられた服がそこにはあった。そして、山折り谷折りとアイロンの重みを感じさせない着こなしがその男の粗雑さを垣間見せた。

「だから何だ・・・。」

 好きなアニメが被ったところで他人は他人、ましてやこんなところで育まれる友情なんてありえないだろう。土壌のpHが低すぎる。ただただ過行くパノラマは、いたずらに私の精神を蝕んでいく。ただ、それだけ……。

 

 景色は流れ、4次元的な移転が起こる。窓外の映像美は、鄙から都心に移ろいで行く。ストレスが上昇すると言えど、やはり帰路では心が穏やかに、ちょっとしたトランス状態に陥る。精神が上位存在と出世を果たし、ちょっとやそっとの人間の愚行を看過できる。

キィーーーーイィーーィッ、ドンッ!

 緊急停止。

 それはいい。ただ、今の衝撃を好機と見たオバンがただでさえ窮屈な満員電車で半歩以上……、私の領域を侵犯してきた。そして、あろうことかスマホを取り出し、奴の前方の領土を強固な塀で取り囲んでしまった。

 助けて、ライナー!!という叫びもむなしく、白馬の鎧の巨人様は訪れない。こればかりは、私は悪くない。悪い奴……、車掌、オバン、大学、日本社会 etc.

 一瞬でトランス状態が解けてしまった。ネタ晴らしがやたら早い。夢なら、この悪夢まできちんと覚ましてほしい。

 

 ようやく、人蠱のフードプロセッサーから生還を果たし、母なる大地を踏むことが叶った。天を仰ぎ喜びを噛み締め、地を見下ろしもう暫くの地獄を直観する。ゴミはまだそこに広がる。もったりとした集団移動は、内なる個を暴れさせる。だが、それを赤子のように理性で抑えられないようのであれば、人間として未完成のポンコツ、スクラップが丁度良いであろう。所々にスクラップが転がりはしている。

 しかし、視線を下した時に目の端で既視感が仕事した。覚えているだろうか、さっきのアニメプリントTシャツ君を。彼がどういう因果か、再び目の前にいた。いや、本当に彼なのだろうか。というもの、私は他人の生得IDパス、つまり顔を覚えることが苦手なのだ。つまり、アニメプリント君は先程の君であるのか、その判断材料が彼のシャツからしか行えない。同Tの別人である可能性もあるのだ。だが、ここで一つある認識論を得た。彼は同一人物であるということだ。

「?」

 まあ、そのクエスチョンマークをしまってほしい。別に私は何の考えも無しにアニT君が同一人物であると述べてるわけでもないし、そもそも彼だけについて述べたわけではない。私が論じたいのは、哲学的な高度な内容だ。

 私たちは普段生活する中で、視界に人間を捉える。これは嫌でも入り込む。飛蚊症よりも不快なものだが、それはしょうがない。視界で認識できる範囲は限りがあり、ここへの人強いに至っては1000人程度であろうか。つまり、私たちは一度に全ての人類を視認している訳ではない。過去現在未来を繋ぐ時間軸上で、整合性が取れる形で認識世界を広げているにすぎず、昨日見た人と今日見た人、なんなら数時間以内に出会った人全員を分けて認識していることは無い。これらの事実から私が言いたいことは、視認可能人数を使いまわすことで世界を形成しているのではないかということだ。

 例えば、君が街中を歩いているとしよう。人の往来の中、同行している人間でもない限り視界内で存在し続ける人間はいないだろう。では、視界から消え失せた人間のその後は知ることが出来ているだろうか。いや、そんなことを気にすること自体がないだろう。そう、同一人物が別人物を演じたとしても。

 視界内に捉えようが、認識しなければ未使用と同義だ。認識をしようが、脳の前頭葉に深く刻まなければ、次の日にでも存在自体忘却の彼方であろう。認識しないのでは、勿体ない。じゃあ、使いまわせばいい。

 認識の程度に合わせて、使いまわせばいい。顔と服装を少し変質させ、舞台裏を通り次の出番まで楽屋で待とう。世はまさに、逢魔が劇場。お客は一等席に、私がふんぞり返る。視聴者参加型の大規模劇場。役者は多くても1万人程度。クビになれば、存在や生きた痕跡すらも蒸発してしまう。

 これを見ている君も、役者の一人であろう。もっとも、私が認識すればだが……。

酒は飲んでも飲まれるな

アルコール度数0%

 

情報の秘匿における価値の上昇値は、先日述べた通り"宣伝"によって増加する。

私が抱いたアルコールに対してイメージ・価値は、0歳から20歳になるまでに積み重ねられた広告の累積と同じである。アオリからフカンに変化した、テレビ画面はダイエットに成功した今でも映し出すものは、旨そうにグラスを仰ぐ紳士淑女、所によりおっさんである。その味を想像できぬ頃でも、砂漠のオアシスのごとき蜃気楼を眼前に映していた。

おまけに、「お酒は二十歳になってから」というキャッチコピーと化した法制度がトッピングされている。カリギュラ効果というものは、聞いたことがある人も多いであろう。するなよ、絶対にするなよ!は、したくなるっていうアレだ。素晴らしきトッピングだなこれは、と感心までしてしまう。果汁の濃度を誇るしかない果物汁とは異なり、ただただ旨そうに飲む。こんなに宣伝上手な事は他になく、形骸化した虎柄のゴールテープを切らずにただただ引き延ばす。

 

しかし……。

酒は一合も飲んでいないのに、その価値はここが山頂であった。

 

 

アルコール度数10%

 

積み上げられたの堅固なる城は、一夜にして崩落してしまった。

ツンと鼻腔に針を刺す香りには、拘りを感じた。だが、そこには/カゲが潜んでいた。

影は光が強くなるほど同様に強くなる。では、この酒が光として視界を狭めさせるほどの強さを含んでいたかというと、これに対してはと言う他無い。カレは、私の前に立つと無垢なジュースでしかなかった。影ばかりがその濃さを増し、残った最後の砦が香りであったという訳だ。つまり感想は、

『影が香りにまで及んでいた。』

この一文が全てである。そして、

影=アルコール

ここで分かれば、凡人級!ここでもよく分からない人の為に、

味はアルコールで壊滅状態

もう答えである。

梅のワインであったので、梅ジュースに独特な辛さが加わったものであると想像していた。そうでなくても、酸味と苦みが合わさった辛さ。これが私が望んだ最低ラインであった。これで十分であった。しかし、実際は身体の中を焼き尽くす火炎瓶であったわけだ。容赦なく投げ込まれた瓶は口内に破片を突き刺しながら、を流し込んだ。味に梅の酸味・甘味を残しているのであれば、まだ美味しいと言えたであろう。しかし、パンドラの箱のように優しくはなかった。ただの劇薬だった。

🍷

 

 

アルコール度数20%

 

……初めては、こんなものなのかとふと思い返す。

それもそうだ。初めてというものはプラスに働くことは少ない。あるとすれば、ギャンブルでビギナーズラックと、累計で負けてそうな自称ベテランが口にする位なものである。(これですら、プラスであるかどうかは初心者である我々にはわからないでいるが。)

今年で20歳だ。大人になるべきだと、何かにつけて言われることも増えていくであろう。我慢、観念、譲与、忖度、融通……、ここらまでしか今のところ思いつかないが、"大人の縁語"として用いることが可能でありそうな単語である。なるほど、何かしらに縛られるのが大人であるのだな。そう考えるとあの忌々しいスーツという装束も、体をやたら締め付ける。それでは、声を大にして言おう、

「社会人はドMである」

……モラトリアムという安全圏から暴言を吐いてしまい、申し訳ない。

━━━話を戻そう━━━

一つの嗜好品にここまでやけになるのもおかしな話かもしれない。たとえ、期待外れであったとしても、ここで私は、「苦手であった。」と一言いって白旗振って退散という形が望ましいのかもしれない。そうしないのは、が大人になった者たちの殻を破る為に存在するものであるからだ。

🍺

なんで、俺はそんな奴らが殻を破る為に楽しんで使用できるものを利用できないのか。その理不尽を感じずにはいられなかったのかもしれない。快楽物質ドバドバで、酒もグビグビと呷る。それが、できる奴が幸せなのか?

 

 

アルコール度数50%

 

🍸

20歳になってもいないのに酒を飲むのは、か?

たった1、2歳のフライングでも、法を破っているからなのか?

どーせ、知り合いの半分以上はやってるよ。50%を超えれば過半数。日本の民主主義(仮)なら正当な行為として認められよう。

ただ、俺は守った。ただそれだけ。凄いやろ。」と胸を張る。。。

🍺🍺🍺

 

 

アルコール度数100%

 

100日後に死ぬワニに、……消毒用アルコールを飲ませよう!…………、屍にはスイカの種を植え、春にはみんなで一升瓶を担いで花見をしよう……。花びらが……花火に変わり…………。

オイ!!!!!!!!!!なんで夜空に変わるんだよ!!!!!!!!!!!!

なんで…………、なんで変わるんだよ!!!!変わんなよ……、

コラ~~~~~~~~~~~www

これでもかって位ドロドロの濃厚梅ジュースの中にはアルコールが入っており……、

怒りのあまり…………中坊にはいってはいっていってッて………………、

………………

……

コケコッコー🐓

 

 

アルコール度数0%

 

「酒は飲んでも飲まれるな」

この格言は、伝承としてとても価値があるものだ。

火のない所に煙は立たぬ、とあるように言葉は0から生まれることはない。失敗した馬鹿な先人が、わざわざ残してくれたのだ。参考にしない手はない。

酒は古来から様々な作品の中心にあった。失敗の象徴であることも、褒美として成功の象徴として描かれることもしばしば……。どう扱うのかは、結局我々次第。ならば、

友と盃を交わす

こんな、酒が楽しいのであろう。

 

 

あとがき

 

正直、描き足りない。

酒に関する文学作品は、最後の章で述べた通りかなりの数存在する。それも古代から現代までの横の軸、伝説や小説、宗教作品、絵画などの縦の軸と、幅というより面で広い。

それらを全て絡めて描きたいものではあるが、出来上がりの質は保証できないので、見送ることにした。

ちなみに、アルコールの度数で酔ったような文章を書く演出において、度数100%の内容は突拍子も無いものであったが、これは私の夢日記(現存分)の複数個と『やばいクレーマーのSUSURU TV』をカクテルのようにミックスしたものである。特に全体に関わるような伏線などは無いので、ご了承いただきたい。

馬の化け物

 

「トレーナーさん!今日のメニューを教えてください。」

 

まさにこれはデジャヴ。いや、デジャヴというにはあまりに鮮明すぎる光景であった。

毎日繰り返される光景には、ノイズの入る余地がない程の飽きが付き纏う。

自分は何故この光景を拝みに行くのか……?ルーティンとして埋め込まれた習慣は、神経、シナプスのその先まで絡みつき、簡単には抜け出せない。

 

 

私が、その者共に出会ったのは約5か月前。

朝、私はいつもの屎尿プログラムを終え、スマートフォンに手をかけた。すると、頭頂部が急に熱くなってきた。なんだっそら、耐えられない!とスマホを床に落とした。

暫く、その異常事態と格闘を続け、スマホを拾い上げた。

時刻は10時を回っていた。

拾い上げたスマホの画面には、大手SNSアプリの青い鳥が羽ばたいており、意識世界から現実世界へ出勤し始めた人で溢れていた。

 

「おはよう~」

 

「起きました笑」

 

「今、起きたw」

 

毎日経験することを特別な出来事であるように思い思いに呟く。これを見ると、昨日から今日へ、さらに未来への成長を拒んだ人類の多さに飽き飽きしてしまい、朝からテンション1割減である。

しかし、その日は少しスパイスが効いていた。有象無象の呟きに埋もれながらも、その存在感を示す呟きが混じっていたのだ。

 

ウマ娘プリティーダービー……?!」

 

新緑のような新鮮さがそこにはあった。

もちろん、全く知らないコンテンツではなかった。

2年ほど前に1期のアニメを1話だけ見ていた。

当時の私は、アイドルもののアニメとは無縁の存在であった。

 

「仲間となら頑張れる!」

 

「みんな大好き!」

 

「努力すれば何とかなる!」

 

私が『偶像三箇条』と呼ぶこの三つは、私の肌に合わないアニメ全般に当てはまるが、特にアイドルものはこの三つを抜けなく履修している。

2年前の私は、ウマ娘プリティーダービーを1話の時点でアイドルものとしてカテゴライズして、履修を辞退したわけだ。しかし、イドラ的判断は時に残酷なものであり、ウマ娘は、この時一大ムーブメントであった。

私の判断は、間違っていた。いや、ここから間違え始めた。

すぐにDMM版ウマ娘をダウンロード。世に蔓延る、己の劣情を4-2足歩行の生物に託す者たちの仲間入りを果たした。そこからは、元来の凝り性である性格が合わさり、強いウマ娘を作ることに没頭していた。

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そして、現在。

下手に手を加えたせいで、手放すことは容易ではない。

愛情無き今、形骸化した習慣はただ得るものなく自分の時間を貪り食う。

 

新たな怪物の誕生である

口内炎

 人生の中で必要でないものというのは星の数より多い。必要でないものはいつだって我々の行く手を阻む邪魔ものだ。当然、我々はそれを廃棄する。捨てられるのはいつだって不必要なもので、必要なものは手の届く所のに置いておく。後者まで捨てようとする人間は、狂った断捨離魔か世俗を離れた修行僧くらいだろう。しかし、口内炎はその限りではない。頼んだわけでものないのに、彼らは雨後の筍如く湧いて出る。右の口内炎治れども、すぐさま左に現れる。右頬を殴られて左頬を差し出すキリストくらいの聖人でなければ、この憎き白斑点どもの行いは看過できない。

 少し話がズレるが、「痛み」とは何のためにあるのだろうか。別にアンパンマンの歌を歌ってほしいわけではない。少なくとも愛や正義の為にあるのではないのだから。

 さて、読者の皆さんが哲学方面に弁を述べる前に私なりの答えを言うと、「痛み」とは身体からのメッセージだ。理系の方々だと堅苦しい表現でスマートに述べるのであろうが、悲しいかな私は文系、回りくどくいかしてもらおう。

 メッセージとは詩的すぎるとの指摘は待ってもらおう。あと、その洒落にもだ。その表現はあながち間違いでなく、身体が何かしらの問題を孕んだ時に我々の心、つまり脳へとその信号を送る。我々はそれを受け取り、安静にするなどの対応をする。生命誕生からはや36億年、これほどまでに高度なシステムは宇宙広けれど、そうそう構築されていないであろう。せっかくならば「イタイヨ~」だとか「タスケテ~」、「シヌ~」と直接脳に送って欲しいものだが。そして、これらのメッセージは我々が対応して初めて意味を成す。こころとからだの共同作業なのだ。

 さて、そろそろ話の本質を突こう。口内炎の痛みはキャッチボールでない。剛速球を投げつけてくるだけ、大谷もびっくりなスピードでだ。かさぶたのような蓋をしてくれるならば、食事の経路を変えよう。粘膜を出すなら、強いうがいを避けよう。しかし、奴らがとった手段はあろうことか患部を露出させるだけだった。そして、露天掘りでも始めたのかと思うばかりの穴を作る。我々は痛みに涙を流すばかりで、何もできない。文字通り、泣き寝入りだ。

 口内炎の存在は人間という生体のシステムにおけるエラーであり、人類が完璧な生物になれない足枷であることを、ここに記す。