お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

モノローグ

 物書きの良い所は我が身一つあれば、物語を紡ぐことが出来る点にある。絵描きの最低値が紙とペンであるところからもその差は一目瞭然であろう。言の葉が口と手から生まれることができる強みとも言えるか。
 ともすれば、著しく自由が奪われる満員電車中や身体を揺らすことすら不謹慎となる葬式の場でさえ、物語を作ることが可能であるということだ。
 私は生活環境の著しい変化に客観的な視点を伸ばすだけの知力を獲得し得た中学生以上高校生未満の時期から現在に至るまで、自身の意識が自身の中にある際には思考をし続けている。

 これまで脳内で紡がれる物語はどこか批判的で反抗期の学生が世界を相手取るような内容であったといえる。その外殻だけ見れば立派なものではあるが、中身は稚拙と言わずにはいられない。ハリボテもいいところである。
 ただそうした批判的な姿勢が物語るためのエナジーを生んでいたのは事実である。私が何かを物語る時はいつも、ストレスに押し出される形で言葉が飛び出していた。
 私はただ飛び出してきた執筆衝動を抑えきれず、眼前の固形物を口に運ぶことを止められぬ幼子のように書いてきた。ただ、それだけであった。
 
 だが、そのような書き方には限りがある。限りがあって陰りをもたらす。私のストレスがエネルギーであるというのならば、それを取り上げられてしまうとお手上げであるということだ。ストレスが無いということは耳障りにも良い、まるで良い事かのように語ることができるが、実際にはとても苦痛な状況である。
 現状が幸せであるのだから、そこには何も流れては来ない。幸福や活力、感情など人を取り巻く様々な構成要素のエントロピーが0になった状態と言える。不幸があり幸福がある。対義語の存在しないモノなど厳密には存在しない。私はこのストレスフリーな現状を以て自身を中心として、その対義語を消滅させた。何事にもやる気を見出せない植物以下の状態に陥った。

 そして、こうした実状を省みるのには随分と時間を要した。その出口を他者の創作物に求め、目をブルーライトで焼き、インクの香りが沁み込んだ紙に目を擦り付けた。普段は触れもしないようなことにも手を伸ばした。
 結果から言うとこうした活動には私を掬い出す力など無かった。あのようなものは不幸な人間にこそ相応しい。パズルのピースが丁度一対の凸と凹で向き合うようにそれらも形作られている。
 加えてまた結果から言うと、私は結局この後、自分一人で勝手に助かった。私のやる気袋に穴を開けたのは私自身であった。
 具体的に何をしたかと言うと、モノローグである。
 私は外部の創作物に心を移している、又は高速ラリーが求められる他者との意思疎通、睡眠時、創作時などのこれらの状況を除く状況では、自身の言動にモノローグを並べることとした。
 それはとても高尚なものではないが、自身の一挙一動までもを自己分析し、メタ的に認知することに繋がった。私自身の人生という文字通りの私小説語り部が、私の背後に現れたのだ。

 話は変わるが、生物というものは進化を繰返す。いや、これは学者だとか世の中を前向きに捉えようとする連中の戯言だ。
 実際には変化と言うべきである。なんなら、変身でもいい。
 生物は自身が元々持っていた機能を増強したり、逆に切り捨てたりする。それが合理的であるからこそ、肯定的に進化などという身勝手な言葉を投げかける。しかし、実際には一の合理性は万の非合理性の上で成り立っていることを自覚しなけらばならない。そして、これは人間でも同じである。
 人類が猿から進化したのは確かに気が遠くなるような位長い年月を経て、多くの個体の交代で実現している。私たち自身も現在、その止まっているかにも思える時間の流れの一端を担わされている。こういった事を言いたいのだろうと、ツッコまれるかもしれないが私はそんなそんな生物学的尺度での論を展開したいわけではない。もっとミクロな範囲で人類は変化しているのだ。

 人は与えられた能力が多岐に渡る。脳みその大きさが他生物と比べても大きいためであるが、これは先程述べた生物が元々持っていた機能にも当たるだろう。
 脳というものは長い期間をかけて変化したものではあるが、刹那的な時間間隔でも変化を続けている。日常動作であればひと月も繰り返し行えば自然と習得するであろうし、言語に関しても一年本腰入れれば頭に入る。こうしたインプットの内容に呼応するように、考え方や所作にも変化が訪れる。人は短い変化を繰返す。
 そして、これらは繰り返せば繰り返すほど成長し、手を付けず置いておくと衰退する。長期的進化と何ら変わらない。
 だから、人は2桁ほどの人生の中で機能の取捨選択を行っている。限りある時間の中では仕方がないことだ。だが、私としてはその行為はとても非合理的であると考える。と言うもの、数が多いと言っても所詮は全て頭か身体の2択であるし、頭の機能もインプットとアウトプット、身体もオンオフの2択。計4種類の活動しか存在しない。
 にもかかわらず、これの内どれか1,2種類だけを選び取るのは愚かとしか形容できない。全て選び取ればいいのである。そして、そのためのモノローグであるのだ。

 普段何気なくスマホ画面に目を落とすだけでもインプットが完了する、インプット全盛期である現代であるが、その実アウトプットは迫害されている。私のように創作活動を行っているものですら、背筋を伸ばさないとアウトプットには取り組めない。アウトプットは形にしてこそ、そういう考えが浸透し、我々の脳を侵している。
 だが、何かを考察し判断を下す。これだけでも十分にアウトプットであると言えるのではないだろうか。そしてそれは、冒頭で述べた通り身一つあれば出来ることである。
 我々は自身を物語の主人公、そしてそれを評価するもう一人の自分を語り部と置くことで、変化を進化に変えられるのではないだろうか。モノローグは人生を彩る舞台装置であると言えよう。

 

・・・・・・・・・・。

 

 そう、頭の中に浮き出ては消えした文字文字をかき集めてネットの掃き溜めに投げ捨てると、逢魔は満足したようにその画面を閉じた。
 

「怠惰」の徒

 「怠惰」、七つの大罪の一つにも数えられるこの病は、心から始まり身体を食い潰す。ただ、この病は身体から生じる所にも注意しなければならない。日の光が自分を跨ぐ頃にもかかわらず床に就いていたり、それに親しい行動を行っている者はは要注意であり、横になる行為が明けのない怠惰を生み出す。実際、今日までを振り返ると椅子から身体を放り出し、フローリングを舐める生活は物事への情熱を絶やし、我が心身を蝕んだ。

 このままではいけないと思い立てたのは幸運であった。この些細なきっかけが身体を起こした。椅子に座るという苦痛に作業の苦痛を重ねることが出来た今、我が身の再生は次の段階へと移行する。それは苦痛と快感のサイクルを進化の衛星軌道上に乗せることである。

 

 閑話休題だが、人は快感を得ることを目標とし生きている。そして、それは低次の欲求から高次の欲求へと五段階に分けられている。所謂、マズローの欲求階級である。階級の段階により現象世界で得るものの形は異なるが、高次低次に優劣は無く順繰りに求めていくだけである。人はどんな欲求であれそれが満たされることで得られる心の報酬、つまり「快楽」を求めて生きていくが、その本質自体はどの階層においても同じである。ただ、グラスを注いだときに下から水が上っていくように、下の階層が埋まれば上の階層を埋めていくといった具合だ。

 しかし、こうして快楽を得ていく際、手放しでそのシステムが作動するわけではない。つまり、欲求同士には壁が存在するということだ。次段階に移るには、前段階には必要なかった要素を自分の身の回りに置かなければならない。例えば、分かりやすいものであれば二段階目の「安全の欲求」から三段階目の「所属と愛の欲求」に移行する際、二段階目では必要なかった人間関係という要素を新規に獲得しなければならない。そして、それを二段階目の時点で手に入れるのは困難であるということだ。なぜならば、二段階目時点ではその要素から「快楽」を抽出することは不可能であり、それを獲得するのは味覚を発達させないまま食事をする行為に等しい。つまり、新たな味を獲得するために我慢して食事を続けるというストレスがここに生じるのだ。

 では、そのような我慢を回避すれば良いのではないか。前段階の快楽をむさぼれば良いのではないか。そうした考えも浮かぶであろう。しかし、そこには欲求の器がまたも壁として立ちはだかる。欲求一つ一つに器が存在しており、そこに快楽を注ぐイメージをして貰いたい。最初の内は慣れない器だ。注ぐのに苦労するが、そこでの苦労がその器に注がれたものの味をより旨くするだろう。しかし、二度三度と繰り返す、何年何十年と繰り返す内にその苦労は技術により軽減し、同時に感動も減っていく。こなれた手つきで器に注いでいく内に、同じ量を少ない時間でこなすことも可能になるだろう。では、そこから先は……?ここが味噌である。器は肥大化することはない。だから、注いだ分だけ溢れていく。これが欲求不満の状態である。苦労を重ね重ねても、それが報われない。人の精神はそのドギマギを繰り返す内に疲弊していくのだ。

 だから、無味の食事は必要となる。人間の心を育て、本能を壊さないためにも自らストレスを課さなければならない。

 

 話は戻るが、先程挙げた苦痛と快楽の衛星軌道はそうした壁を破るための努力を行わせるものであり、強大な欲求の壁を少しずつ掘削する手法である。

 自分が今存在する欲求階層の快楽を貪ってばかりでは、先程の通りすぐ溢れてしまう。そしてそれを繰り返していくと下位の階層の隅を刮ぐような生き方をしてしまう。分かりやすい例でいえば、ストレスによる暴飲暴食や惰眠を貪る生き様である。こうした快楽を求めるのは人間的に弱者であり、生き見苦しい。では、どうするか?それは自分で快楽を創造するに限る。

 人間はあるものを得ることで快楽を同時に得ているが、快楽を得る方法はそれだけではない。自信に緊張した環境が降りかかった際、それを振りほどくことでも快楽を得ることができる。つまり、ストレスからの解放、飴と鞭といったものである。こうした快楽の得方は現象世界に価値あるものを残しやすく、身体にも良い影響を与えやすい。サウナーの整うや筋トレがこれに近いであろう。

 ただ、こうしたプロセスはストレスからの解放後すぐ後ろに接する容易な快楽に手が届いてしまい。次回にストレスを再び起こすことが難しく感じる。だからこそ、ストレスは二段重ねがベストだと言えよう。

一段階目のストレスを敷き、その上で二段階目のストレスと快楽兼ストレスを置く。具体例を示すと、筋トレという一段階目のストレスの上にハードなトレーニングと比較的楽なトレーニングを置く。部活動などであれば練習と試合が二段階目だろうか。こうした状況が構築できれば、ハードなストレスから解放後比較的楽なストレスを得ることがその差異から快楽となる。しかし、実際にはどちらも一段階目のストレスの上の出来事であり、快楽を得つつもその心身は育っている。これが、快楽を創造するということである。

 

 多くの人間はこれを無意識のうちにやっているため、これが出来ない状態に陥った際、そこからの脱却が難しい。しかし、仕組みさえ理解できれば、そこからの脱出は最初の二段階ストレスを重ねる努力に限定される。

 私自身も作業という一段階目のストレスを敷き、その上にレポート作業とイラスト制作を置くことで高次の欲求を目指そうとする次第である。

人と鮎の近似領域

 『いつもの』という言葉が好きだ。その言葉を吐くだけで、今ここにいる自分が過去からの連続性の上で成り立っていることを自覚できるし、俺の『いつもの』を知らないだけの他者に優越感にも似た感情をぶつけることができる。

 駅から続く大通りから路地に入り、二、三回曲がったところにそれはあった。ショーケースに閉じ込められる感覚を味わうこととなるカフェチェーンとは異なり、店の壁は重みとその存在感を際立たせるレンガ造りとなっている。まさに秘密基地といった具合だ。

 扉を押すと年季を感じさせる鐘がカランカランと優しく響く。それと同時にコーヒーカップ片手に微笑んでいる知り合い、Nの姿を認めた。

「やあ、L。久しぶりだね」

 無視して別の席に座ろうとすると、要らない気を利かせたマスターがNの隣に誘導してきたので、仕方なく彼の隣に座った。

「で、何でここにいるんだ?」

「何でってさぁ、玄関が空いている建物はどこもウェルカムってことだろう? つまり、僕は招かれるべくしてここに来たってことさ」

「住居不法侵入の文字列と共にお前がテレビに映る様が容易に想像できたよ」

 コイツとは同じ言語を用いているのに話が通じない。そんな人間の存在はインターネット上の御伽噺だけだと思っていたが、どうやら違ったようだ。

「マスターいつもので」

 隣の異物は無視して、俺は自分の世界を廻り始める。この道は俺の足跡しか残っていない。それを再び踏みしめることで、巣に籠るにも似た安心感を得られるといったわけだ。

「『いつもの』ってさぁ、人生が『いつもの』の連続なのに勿体なくない?」

 Nが俺の道に横入りをしてきた。ムッとは来たがここで取り合っては相手の思う壺なので、「お前の日常は大きく針が振れるようだな。明日には地球の裏側で銃撃戦でも嗜んでいるのか?」と言って、少し子馬鹿にしてやった。

 しかしNは、「鋭いね」と言葉を漏らしコーヒーを啜った。

「鋭い?何が鋭いって言うんだ?」と素直に疑問をぶつけた。

「ん?あぁ、日常の捉え方かな。僕は好きだよ、そういう考え方」

「日常の捉え方?」

 ますます意味が分からない。

「君は日常を本来針が大きく振れない、振れるべきでないものとして見た。『日々』の『常』なわけだからね。そう振れるべきじゃない。だけど、それに気づかない人も多いんだよ。なにせ世の中はグローバル化で、非日常と接する機会に溢れているからね。」

「つまり、アレか?薄い板を見ながら闊歩する連中は自分たちが非日常の中にいると錯覚していると、そう言いたいわけだな?お前は」

「それだけじゃないけどね。まあ大体そんな感じかな」とNは欠伸して言う。

 癪ではあるが、Nの言うことには納得できる。SNSで数秒の動画を見ただけで、自分が異質な世界の住人になったように感じる。実際のところはスマホを見ている自分が、日常の中に取り残されているというのに。

 マスターが俺の注文の品、つまり『いつもの』を作り終え目の前のテーブルにそっと置いてくれた。ミルクの量、角砂糖の数、余計なことは一つも聞かない。この心地良さに金を払っていると言っても過言ではない。

 そんなことをしみじみと考えていると、左からちょいちょいと肩を叩くNが「まさかびっくり奇遇だねぇ」なんて言う。

 奴の方に視線を向けてこなかったがどうしたことだろう。コイツの前のテーブルに並ぶ品々は俺の『いつもの』と寸分違わず一緒のものだった。

「それが君の『いつもの』だったわけだ。ごめんね。お邪魔させて貰って」とにやけ面でNが続ける。

 邪魔だと思うのなら、帰ってほしい。自分の布団の上に土足で寝そべられた気分だ。

 そして俺の気持ちなど蚊帳の外で、Nがさっきの話の続きをする。

「でね、僕が言いたいのは僕たちの日常や時間軸を加味した人生においても、そこまで遠出をしていないということなんだ。僕たちは非常に狭い世界で生きている」

「だから俺の『いつもの』は狭い世界をさらに狭める愚かな行為だととも言いたいのか?」

 俺は厭味ったらしく返したが、聞き流された。コイツは話始めると止まらないらしい。

「人は日常の世界と言っても複数の選択をこなして一日を終えるから絶えず変化があるように感じる。だけどね、そんな選択は常識という凝り固まった殻から飛び出すことなんて滅多にないんだよ。みんないつも安全牌しか切らない。結局人の世うん十年、あっ今は人生百年時代だっけ? まあ、何年経っても同じさ」

「じゃあ、今から宇宙人が襲来してきて地球を侵略するとかを毎日考えてるオッペケペーが、視野の広い人間だとでも言うのかよ」

「それいいね。僕も毎日そんな感じのことを胸に、床に就くよ」

 どうやらコイツがオッペケペーの代表らしい。

「そうやって『いつもの』を摂取し続けた人間はどうなると思う?」

「どうって、安心の老後でも手に入るんじゃないか」

「安心……。君はいつも鋭いね。」何故か褒められた。

「そうした人間はね、そうした日常を自分たちの巣と錯覚するのさ」

「巣?」

 俺はそう返し、珈琲と一緒についているラズベリーソースの掛かったパンケーキを一口大に切り分けて口に放り込み、珈琲を啜る。珈琲はもう大分ぬるくなっていた。

「巣。そう巣。例えば君が行きつけのこの店も君にとっては巣みたいなもんだね。探せば君の卵でも転がってそうだ」

「気色悪い例え話はよせ」

 食事中の相手に言うような内容ではない。

 時間は午後2時を回ったようで、店内から客がぽつりぽつりと減っていく。早く俺もこの状況から抜け出したいが、コイツの話は止む気配がない。

「いいかい、L。自然界で巣を守るために動物は何をするか、分かるかい?」

「何って……そりゃあ、巣を丈夫に作るんだろ」

「攻城戦とかだとそう考えるね。極めて人間的だ」

 今回は不正解を引いたようだ。コイツは一つの正解の上で話を進めるきらいがある。

「L。君の考えは別に間違っちゃいないんだよ。巣を守るために巣を固くする。隠す。移動式にする。どれも立派さ。だけどね、これらは巣の問題だ。一次的なんだよ」

「一次的?」

「人間で言うなら、生まれもった身体、そしてそれに付随してくる要素の全てさ。先天的とも言うね」

 巣の話だったり、動物、人間の話だったりと、一体俺はどこに感情移入すればいいのかわからないが、パンケーキを平らげることはできた。

「僕が言いたいのは二次的な話。巣を守るためにどうするかは、人間が自分という存在を守るためにどうするかということ。」

 Nが組んでいた足を組み換え、こちらに向き合い直す。

「改めて聞こう。君なら敵から自分の心を守るためにどうする?」

「どうって、無視だ無視。自分の心の中には一歩たりとも踏み入らせないのが一番だ」目の前にいる男のことを思い浮かべると、答えはあっさりと出た。

「それだよ」

 Nにそう言われると、先程の発言を思い返してコイツの手のひらの上で踊ったような感覚に襲われる。

「敵を排除するってことかよ。クソ」

「正解」Nはにやけ面でそう返す。法が許すのならぶん殴っているところだ。

「いつもの空間から異質なものを排除する。みんなやっていることさ。人間は他の生き物よりかは温厚かな。殺すまではいかないからね。だけど、警戒だけは欠かさない」

 コイツの話の道筋は見えてきたが、意図は未だに読み取れない。先刻から長針が反対方向に回れば、いつのまにか店は俺達二人の貸し切りとなり、コイツの有難い説法だけが静かに店内をこだまする。

「N、それの何が悪い。人は自分の日常を守るために人生を費やすもんだろ。それを妨げる奴が出るってんなら、当然はねのける。それとも何か? お前は右頬をぶたれて左頬を差し出す神の子の真似事でもしたいのか?」

 俺は煮え切らないNの話と店内の物寂しさに耐え切れず、少し感情を込めてしまった。しかし、Nは相も変わらずすまし顔で返してきた。

「僕はその現状を愚痴ってるだけさ。非力な僕には何も変えられないからね」

 ここまで来て無責任なことをNは口走る。

「僕は憂いているんだ、人類の可能性が潰えることを。日常という縄張りを守るためにしか動けない人々は、自分を変えんとする異物を相手にしない」

「だけど、人はそんなんでもここまで進化してきただろ。毎年ノーベル賞なりを獲る学者先生が新しい発見もする。これ以上何を望む?」

 Nは静かな眼でこちらに一瞥をくれ、そして続けた。

「君は鮎という魚を知っているかい?」

「鮎ってあの塩焼きにすれば美味しい川魚だろ?知ってるよそれくらい」急な話の転換に戸惑いはしたが、普通に返した。

「そう、その鮎だ。彼らはねぇ、とても縄張り意識の強い魚でね、他の鮎が自分の縄張りに入って来ると徹底的に排除しようとするんだ。その一方で、群れを作ることもある。自分の利益に合わせて生き方を変えるんだよ」

「ふーん、現金なこった」と珈琲を飲み干しながら返す。時計を軽く確認して、席を立つタイミングを窺うが、Nの話は途切れない。

「僕はね鮎と人、とっても似ていると感じるんだよ。」

「それは良い。神様が大洪水を起こしても殺しきれなさそうだな」

 Nは、「面白い冗談だ」と言うが、コイツの話の方がよっぽど面白い冗談だ。

「群れたり、離れたり。節操がない。そして、目の前の現象に何の疑問も持たない。知ってるかい、鮎の漁獲方法を。彼らは友釣りといって同胞をおとりにすると、縄張り意識から攻撃を仕掛けて、まんまと針にかかるんだ。人間もきっと同じ目に合うと思うよ、僕は」

「じゃあ俺はお前に突っかからない方が長生きできるな」

 そう返した俺に、「君のそういうところが好きなんだ」と返してくるもんだから、コイツはそっちの気があるのかもしれない。

 マスターが俺のカップが空になったのを見て、「おかわりいかがですか?」なんて言うもんだから、普段から良くしてもらっている手前無下にはできず、もう一杯の珈琲が運ばれてきた。コイツの話から逃れるタイミングをあっさり失った。

「つまりさ。僕たちはどこまで行っても日常の檻の中で見えるものしか見てないんだよ。いつこの世界の人間の上位存在が罠を張るかも考えずにね」

 Nの話に熱が入ってきた。

「だけどよ。想像力を働かした所で次元を超えた存在には及ばないだろ? 漫画のキャラクターは作者を越えられないといった具合によ」

「そうだね。話は少し戻るけど非日常を求めて、画面に飛び込むけど飛び込めない話をさっきしたね」

「あぁ、そうだな」瞳を左上に、四半時前のことを思い返す。

「アレはそもそも提供された非日常すらも日常の産物だったわけだよ。人間が得られる体験はどこまで行っても日常を越えられないのだから、材料なんてたかが知れている」

 話は佳境に入ったようだが、結局Nが何を言いたいのか底が見えてこない。陽は傾き、店の小さな窓からもその姿を拝めるようになっていた。

「それでさぁ……L」

 Nがこちらに向き直る。整った顔立ちが西日に照らされ、その造形を鮮明にさせる。

「僕はこの世界を上位存在によって形作られていると捉えることにしたんだ。所謂、メタ認知って奴さ」

「仮にその存在を認知しても、知覚も出来ない。意思の疎通なんてもってのほかだ。そんな行為に何の意味があるってんだ?」

 至極まっとうな返しだと思う。向こうにいる奴らが俺たちの言うことに聞く耳を持つかもわからないのに、それに話しかけるなんて不思議ちゃんもいい所だ。

「いや意味はあるさ。さっきから言うように創作物は作者の日常を越えられない。ファンタジーにしても本質は日常から作られてて、非日常的要素は他の非日常のパロディか日常からの願望に過ぎない」

「だから、この俺たちの世界も上位存在の日常の上で成立するから、奴らへの働きかけは奴らにとって意味あるものってか?馬鹿馬鹿しい」俺は鼻で笑い飛ばす。

 すると、Nは4つある天井の角に順番に手を振り始めた。なんだコイツ怖い。

「この世界を覗く窓があると思って手を振っているんだ」なんて言うもんだから尚の事怖い。

「まぁ、どんな感じで僕たちが形作られているかは分からないけどね。それでも僕の発言の中で一つでも面白いと思ってもらえれば、それはきっとこの日常を壊す非日常を生むと思うんだ」

 これ以上コイツの話を聞き続けるとおかしくなりそうなので、残っていた珈琲を胃に流し込み、今度はさっさと席を立って会計を済ませる。

「ねぇねぇ」Nが去り際の俺に話しかける。

 俺はぶっきらぼうに「なんだ?」と答える。背は向けたままだ。

「今回の話で気に入ったのはコレだったみたいだよ」

 そう言うNの指す先は俺がさっきまで座っていた席で、丸く透明で湿った物体が積み重なっていた。

 踵を返し近くで観察してみると、生臭い。どうやらこれは魚卵のようだった。

 はたと思い自分の尻の辺りを触るとどうも濡れている。まさか、いやしかし……!?

「俺が……産んだのか…………?」

「日常を楽しむ君の縄張りには、卵がやっぱりあったみたいだね」

 

 

エリート君とツッパリ君

 学生という存在の持つ熱量の変遷は、表面上だけ見ても顕著であり、ゆとりを超えたさとり世代と呼ばれる者共に至っては、無機質なコンクリートを思わせる様相である。私のようなひねくれ者は、いつの時代も持ち合わせる熱量を全て言葉として残しており、それなりに発散するものだが、外的に発散してきていた連中はどこへ行ったのだろうか。

 近年の社会的風潮では、先天的な内容から人を判断するのは嫌われる傾向にあるが、かと言って全く考慮しないのも正確ではないだろう。生まれつきの性格、性質、環境、交友関係、この辺りの構成要素から人は人生の進路を決定する。今回の話のテーマは学生の熱量であるから、ここの要素からその熱量をどのように扱う人間になっていくかを考える。そうする中で昭和後期から平成初期の学生は、エリートと非エリートの熱量の発散の形が類似していることに気が付いた。

 まずはエリート階層、つまり世間的に見ても良いとされる学校に通う層だ。この層は、優等生であるのだから熱量は全て"学"に注いでいるのではと思いたいところだが、そうとも言い難い。彼らの一部、時代によってはその多くが学を持ち合わせ、情報を取り入れ、自分で思考できる能力を有していることから、社会の方針との食い違いにより、社会を相手取った反抗を起こす。要するに、学生運動の勃発である。学生運動は「知」と「暴」のダブルパンチであり、熱は増幅し、烈火のごとく燃え上がる。ここでの熱量は集団の結びつき、規模の拡大と共に個人当たりの熱量の加算ではなく、乗算的に増幅する。そして、その熱に充てられた学生が次々に参加していく。そうしていくうちに、一人当たりの熱量は青天井となる。

 次に非エリート階層、分かりやすく言うと落ちこぼれとされる層だ。落ちこぼれは、社会というステージから落とされた、或いは自ら進んで落ちた学生の集まりで、そうした奴らは集団を形成し、ヤンキーとなる。この時点で分かるとは思うが、つまりヤンキーの行動原理も学生運動と同様に社会への反抗な訳だ。そうした点で、住む世界は違えど両者は非常に似通った集団であると言える。

 これらの学生の熱量発散方法は褒められたものではなかったが、熱量が両者とも増幅している点で活気にあふれたものと言えよう。そして、彼らの活動は"直接"社会へ影響を及ぼすものであったため、必要悪な役回りであったとも考えられる。

 では、現代の学生の熱量の所在は何処か。創作物や文化の影響を強く受けていた学生運動、不良集団はメディアが垂れ流すドラマや漫画、小説等で徐々にそのスタイルが軟化させられていることに気が付けず、従来のスタイルを時代遅れとし、ギャル男やビジュアル系といった、なよなよしたヤンキースタイルの確立、学生運動は通信技術の発達により、ネット上での悪口合戦に留まっている。そして、両者とも同種間の繋がりが薄れていき全盛期ほどの熱量を生み出すことが困難となっている。

 ここまで書いてきて、昔のスタイルを肯定するつもりはないが、現代のスタイルはもっと否定したものであることは伝わっただろう。社会に適応する層の同じだけの社会に対してツッパリ、自分のスタイルを貫く層の存在がいるだけで、社会に刺激を与え、現状の改善、そして更なる発展に繋がっていくのでないだろうか。…まあ、私はいつの時代にもいるただの批判的傍観者ではあるのだが。

徒然アソシエーション

 徒然なるままにひぐらし

 これを枕詞に、己の心の有様を飾らずに描き、一つの物語として完成させた吉田兼好は上手くやったものだ。あれもこれも、99%の才能と1%の環境によるものであるのだろう。

 現代、いや現在人の私にとって創作はとても不自由なものだ。己が敷いた枷に雁字搦めで、指一本動かすことすらままならない。日夜、種種雑多な作品が電子の海に投げ込まれていき、その数は衰える所を知らない。そして、ジャンルによる嗜好の違いが存在するものの、根本的な良し悪しは見え隠れしている。誰にしてくれと頼んだわけでものないその批評は、自身に先導して行われ、その稚拙な正体を赤裸々にする。もちろん、自分の作品もその対象である。

 創作物への評価は、他作品を知ること、構成における慣例を知ること、社会の風潮を知ること、自身を知ることでその形は十人十色に変化する。他人と自分、もちろん他の第三者との間においても、その評価が一致することはない。そこが創作の楽しさであると同時に、心の葛藤を生み出す要因なのである。

 私は創作の時に心掛けているものとして、面白さに重きを置く。どんなに高尚な作品であろうと、どんなに奇跡的な事象が重なって生まれた事実であろうと、他者に見せる以上エンタメな訳であり、開始三行が退屈なおフランスの自慢話であれば誰もがページを繰る手を止めるであろう。その根幹があるからこそ、自身の拙い創作観でも創作が出来ている訳だ。問題はここで言う面白さを、本当に形作れているかという点である。

 もちろん、描いているときは面白いと思って書いている。しかし、集中が切れたタイミングで自動アップデートのように評価が始まる。構成に無理は無いか?他者のネタと被っていないか?倫理的にマズイものではないか?テクニカルな作品であるか?毎回だ。毎回のようにこれが起こる。面白さだけを求めて描く世界もこうした評価観点で縛られてしまうと、途端に手が止まる。それ以降の柔軟性は失われ、箱詰めの物語が始まる。結果、完成した作品は序盤の勢いを喰い殺された哀れなものとなる。

 こうなる原因は、自分の中で大体見当がついている。それは、知識の吸収方法の誤りにある。よりよい創作を行うため、私は今まであらゆる情報に目を通してきた。知識量で言えば、創作をあまり行わない人よりはある方であろう。しかし、それらの知識を吸収すると同時に、どう区分して記憶するかどう扱うか、この二点を考慮していなかったのだ。どんなに優れた武器であろうとも、その扱い方を知らなければ獣を狩ることはできない。かえって、その扱えない武器にばかり気を取られてしまい、目の前の獣から目を逸らしてしまう。獣を狩るどころの話ではない。

 知識が創作を縛ってはならない。現在の私の有様は、「創作は自由である」とした私の信条に反する。あくまで知識は創作の導き手ではない。創作された道を整備するためのものなのである。いつの間にか誤った扱い方をしていた自身の愚かさを恥じ、猛省する。ってかこの話し方も自由な創作では必要ないと思う。もっと自由に、もっと楽しく。いつの間にか忘れていた感情をここに取り戻そう。ペンを握る手はいつまでも歩みを止めることはない。いつかの兼好に思いを寄せて、徒然なるままに…。

逢魔が劇場 【微ネタバレあり】

 桜が舞い散る様を傍目に、眼前に広がるは人のゴミ……。8両編成の列車がけたたましく車輪と線路の間にノイズを産む。ストレス値が指数関数的に伸び続け、視神経と繋がるシナプスが瞬間点結合体をY軸と平行と勘違い始める。

 脳は心の平穏を求め眼球周りの筋肉に電気信号を送る。その時、ふと眼前の男の背に焦点が合う。ちょっとしたアニメイラストが拵えられた服がそこにはあった。そして、山折り谷折りとアイロンの重みを感じさせない着こなしがその男の粗雑さを垣間見せた。

「だから何だ・・・。」

 好きなアニメが被ったところで他人は他人、ましてやこんなところで育まれる友情なんてありえないだろう。土壌のpHが低すぎる。ただただ過行くパノラマは、いたずらに私の精神を蝕んでいく。ただ、それだけ……。

 

 景色は流れ、4次元的な移転が起こる。窓外の映像美は、鄙から都心に移ろいで行く。ストレスが上昇すると言えど、やはり帰路では心が穏やかに、ちょっとしたトランス状態に陥る。精神が上位存在と出世を果たし、ちょっとやそっとの人間の愚行を看過できる。

キィーーーーイィーーィッ、ドンッ!

 緊急停止。

 それはいい。ただ、今の衝撃を好機と見たオバンがただでさえ窮屈な満員電車で半歩以上……、私の領域を侵犯してきた。そして、あろうことかスマホを取り出し、奴の前方の領土を強固な塀で取り囲んでしまった。

 助けて、ライナー!!という叫びもむなしく、白馬の鎧の巨人様は訪れない。こればかりは、私は悪くない。悪い奴……、車掌、オバン、大学、日本社会 etc.

 一瞬でトランス状態が解けてしまった。ネタ晴らしがやたら早い。夢なら、この悪夢まできちんと覚ましてほしい。

 

 ようやく、人蠱のフードプロセッサーから生還を果たし、母なる大地を踏むことが叶った。天を仰ぎ喜びを噛み締め、地を見下ろしもう暫くの地獄を直観する。ゴミはまだそこに広がる。もったりとした集団移動は、内なる個を暴れさせる。だが、それを赤子のように理性で抑えられないようのであれば、人間として未完成のポンコツ、スクラップが丁度良いであろう。所々にスクラップが転がりはしている。

 しかし、視線を下した時に目の端で既視感が仕事した。覚えているだろうか、さっきのアニメプリントTシャツ君を。彼がどういう因果か、再び目の前にいた。いや、本当に彼なのだろうか。というもの、私は他人の生得IDパス、つまり顔を覚えることが苦手なのだ。つまり、アニメプリント君は先程の君であるのか、その判断材料が彼のシャツからしか行えない。同Tの別人である可能性もあるのだ。だが、ここで一つある認識論を得た。彼は同一人物であるということだ。

「?」

 まあ、そのクエスチョンマークをしまってほしい。別に私は何の考えも無しにアニT君が同一人物であると述べてるわけでもないし、そもそも彼だけについて述べたわけではない。私が論じたいのは、哲学的な高度な内容だ。

 私たちは普段生活する中で、視界に人間を捉える。これは嫌でも入り込む。飛蚊症よりも不快なものだが、それはしょうがない。視界で認識できる範囲は限りがあり、ここへの人強いに至っては1000人程度であろうか。つまり、私たちは一度に全ての人類を視認している訳ではない。過去現在未来を繋ぐ時間軸上で、整合性が取れる形で認識世界を広げているにすぎず、昨日見た人と今日見た人、なんなら数時間以内に出会った人全員を分けて認識していることは無い。これらの事実から私が言いたいことは、視認可能人数を使いまわすことで世界を形成しているのではないかということだ。

 例えば、君が街中を歩いているとしよう。人の往来の中、同行している人間でもない限り視界内で存在し続ける人間はいないだろう。では、視界から消え失せた人間のその後は知ることが出来ているだろうか。いや、そんなことを気にすること自体がないだろう。そう、同一人物が別人物を演じたとしても。

 視界内に捉えようが、認識しなければ未使用と同義だ。認識をしようが、脳の前頭葉に深く刻まなければ、次の日にでも存在自体忘却の彼方であろう。認識しないのでは、勿体ない。じゃあ、使いまわせばいい。

 認識の程度に合わせて、使いまわせばいい。顔と服装を少し変質させ、舞台裏を通り次の出番まで楽屋で待とう。世はまさに、逢魔が劇場。お客は一等席に、私がふんぞり返る。視聴者参加型の大規模劇場。役者は多くても1万人程度。クビになれば、存在や生きた痕跡すらも蒸発してしまう。

 これを見ている君も、役者の一人であろう。もっとも、私が認識すればだが……。

酒は飲んでも飲まれるな

アルコール度数0%

 

情報の秘匿における価値の上昇値は、先日述べた通り"宣伝"によって増加する。

私が抱いたアルコールに対してイメージ・価値は、0歳から20歳になるまでに積み重ねられた広告の累積と同じである。アオリからフカンに変化した、テレビ画面はダイエットに成功した今でも映し出すものは、旨そうにグラスを仰ぐ紳士淑女、所によりおっさんである。その味を想像できぬ頃でも、砂漠のオアシスのごとき蜃気楼を眼前に映していた。

おまけに、「お酒は二十歳になってから」というキャッチコピーと化した法制度がトッピングされている。カリギュラ効果というものは、聞いたことがある人も多いであろう。するなよ、絶対にするなよ!は、したくなるっていうアレだ。素晴らしきトッピングだなこれは、と感心までしてしまう。果汁の濃度を誇るしかない果物汁とは異なり、ただただ旨そうに飲む。こんなに宣伝上手な事は他になく、形骸化した虎柄のゴールテープを切らずにただただ引き延ばす。

 

しかし……。

酒は一合も飲んでいないのに、その価値はここが山頂であった。

 

 

アルコール度数10%

 

積み上げられたの堅固なる城は、一夜にして崩落してしまった。

ツンと鼻腔に針を刺す香りには、拘りを感じた。だが、そこには/カゲが潜んでいた。

影は光が強くなるほど同様に強くなる。では、この酒が光として視界を狭めさせるほどの強さを含んでいたかというと、これに対してはと言う他無い。カレは、私の前に立つと無垢なジュースでしかなかった。影ばかりがその濃さを増し、残った最後の砦が香りであったという訳だ。つまり感想は、

『影が香りにまで及んでいた。』

この一文が全てである。そして、

影=アルコール

ここで分かれば、凡人級!ここでもよく分からない人の為に、

味はアルコールで壊滅状態

もう答えである。

梅のワインであったので、梅ジュースに独特な辛さが加わったものであると想像していた。そうでなくても、酸味と苦みが合わさった辛さ。これが私が望んだ最低ラインであった。これで十分であった。しかし、実際は身体の中を焼き尽くす火炎瓶であったわけだ。容赦なく投げ込まれた瓶は口内に破片を突き刺しながら、を流し込んだ。味に梅の酸味・甘味を残しているのであれば、まだ美味しいと言えたであろう。しかし、パンドラの箱のように優しくはなかった。ただの劇薬だった。

🍷

 

 

アルコール度数20%

 

……初めては、こんなものなのかとふと思い返す。

それもそうだ。初めてというものはプラスに働くことは少ない。あるとすれば、ギャンブルでビギナーズラックと、累計で負けてそうな自称ベテランが口にする位なものである。(これですら、プラスであるかどうかは初心者である我々にはわからないでいるが。)

今年で20歳だ。大人になるべきだと、何かにつけて言われることも増えていくであろう。我慢、観念、譲与、忖度、融通……、ここらまでしか今のところ思いつかないが、"大人の縁語"として用いることが可能でありそうな単語である。なるほど、何かしらに縛られるのが大人であるのだな。そう考えるとあの忌々しいスーツという装束も、体をやたら締め付ける。それでは、声を大にして言おう、

「社会人はドMである」

……モラトリアムという安全圏から暴言を吐いてしまい、申し訳ない。

━━━話を戻そう━━━

一つの嗜好品にここまでやけになるのもおかしな話かもしれない。たとえ、期待外れであったとしても、ここで私は、「苦手であった。」と一言いって白旗振って退散という形が望ましいのかもしれない。そうしないのは、が大人になった者たちの殻を破る為に存在するものであるからだ。

🍺

なんで、俺はそんな奴らが殻を破る為に楽しんで使用できるものを利用できないのか。その理不尽を感じずにはいられなかったのかもしれない。快楽物質ドバドバで、酒もグビグビと呷る。それが、できる奴が幸せなのか?

 

 

アルコール度数50%

 

🍸

20歳になってもいないのに酒を飲むのは、か?

たった1、2歳のフライングでも、法を破っているからなのか?

どーせ、知り合いの半分以上はやってるよ。50%を超えれば過半数。日本の民主主義(仮)なら正当な行為として認められよう。

ただ、俺は守った。ただそれだけ。凄いやろ。」と胸を張る。。。

🍺🍺🍺

 

 

アルコール度数100%

 

100日後に死ぬワニに、……消毒用アルコールを飲ませよう!…………、屍にはスイカの種を植え、春にはみんなで一升瓶を担いで花見をしよう……。花びらが……花火に変わり…………。

オイ!!!!!!!!!!なんで夜空に変わるんだよ!!!!!!!!!!!!

なんで…………、なんで変わるんだよ!!!!変わんなよ……、

コラ~~~~~~~~~~~www

これでもかって位ドロドロの濃厚梅ジュースの中にはアルコールが入っており……、

怒りのあまり…………中坊にはいってはいっていってッて………………、

………………

……

コケコッコー🐓

 

 

アルコール度数0%

 

「酒は飲んでも飲まれるな」

この格言は、伝承としてとても価値があるものだ。

火のない所に煙は立たぬ、とあるように言葉は0から生まれることはない。失敗した馬鹿な先人が、わざわざ残してくれたのだ。参考にしない手はない。

酒は古来から様々な作品の中心にあった。失敗の象徴であることも、褒美として成功の象徴として描かれることもしばしば……。どう扱うのかは、結局我々次第。ならば、

友と盃を交わす

こんな、酒が楽しいのであろう。

 

 

あとがき

 

正直、描き足りない。

酒に関する文学作品は、最後の章で述べた通りかなりの数存在する。それも古代から現代までの横の軸、伝説や小説、宗教作品、絵画などの縦の軸と、幅というより面で広い。

それらを全て絡めて描きたいものではあるが、出来上がりの質は保証できないので、見送ることにした。

ちなみに、アルコールの度数で酔ったような文章を書く演出において、度数100%の内容は突拍子も無いものであったが、これは私の夢日記(現存分)の複数個と『やばいクレーマーのSUSURU TV』をカクテルのようにミックスしたものである。特に全体に関わるような伏線などは無いので、ご了承いただきたい。