お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

人と鮎の近似領域

 『いつもの』という言葉が好きだ。その言葉を吐くだけで、今ここにいる自分が過去からの連続性の上で成り立っていることを自覚できるし、俺の『いつもの』を知らないだけの他者に優越感にも似た感情をぶつけることができる。

 駅から続く大通りから路地に入り、二、三回曲がったところにそれはあった。ショーケースに閉じ込められる感覚を味わうこととなるカフェチェーンとは異なり、店の壁は重みとその存在感を際立たせるレンガ造りとなっている。まさに秘密基地といった具合だ。

 扉を押すと年季を感じさせる鐘がカランカランと優しく響く。それと同時にコーヒーカップ片手に微笑んでいる知り合い、Nの姿を認めた。

「やあ、L。久しぶりだね」

 無視して別の席に座ろうとすると、要らない気を利かせたマスターがNの隣に誘導してきたので、仕方なく彼の隣に座った。

「で、何でここにいるんだ?」

「何でってさぁ、玄関が空いている建物はどこもウェルカムってことだろう? つまり、僕は招かれるべくしてここに来たってことさ」

「住居不法侵入の文字列と共にお前がテレビに映る様が容易に想像できたよ」

 コイツとは同じ言語を用いているのに話が通じない。そんな人間の存在はインターネット上の御伽噺だけだと思っていたが、どうやら違ったようだ。

「マスターいつもので」

 隣の異物は無視して、俺は自分の世界を廻り始める。この道は俺の足跡しか残っていない。それを再び踏みしめることで、巣に籠るにも似た安心感を得られるといったわけだ。

「『いつもの』ってさぁ、人生が『いつもの』の連続なのに勿体なくない?」

 Nが俺の道に横入りをしてきた。ムッとは来たがここで取り合っては相手の思う壺なので、「お前の日常は大きく針が振れるようだな。明日には地球の裏側で銃撃戦でも嗜んでいるのか?」と言って、少し子馬鹿にしてやった。

 しかしNは、「鋭いね」と言葉を漏らしコーヒーを啜った。

「鋭い?何が鋭いって言うんだ?」と素直に疑問をぶつけた。

「ん?あぁ、日常の捉え方かな。僕は好きだよ、そういう考え方」

「日常の捉え方?」

 ますます意味が分からない。

「君は日常を本来針が大きく振れない、振れるべきでないものとして見た。『日々』の『常』なわけだからね。そう振れるべきじゃない。だけど、それに気づかない人も多いんだよ。なにせ世の中はグローバル化で、非日常と接する機会に溢れているからね。」

「つまり、アレか?薄い板を見ながら闊歩する連中は自分たちが非日常の中にいると錯覚していると、そう言いたいわけだな?お前は」

「それだけじゃないけどね。まあ大体そんな感じかな」とNは欠伸して言う。

 癪ではあるが、Nの言うことには納得できる。SNSで数秒の動画を見ただけで、自分が異質な世界の住人になったように感じる。実際のところはスマホを見ている自分が、日常の中に取り残されているというのに。

 マスターが俺の注文の品、つまり『いつもの』を作り終え目の前のテーブルにそっと置いてくれた。ミルクの量、角砂糖の数、余計なことは一つも聞かない。この心地良さに金を払っていると言っても過言ではない。

 そんなことをしみじみと考えていると、左からちょいちょいと肩を叩くNが「まさかびっくり奇遇だねぇ」なんて言う。

 奴の方に視線を向けてこなかったがどうしたことだろう。コイツの前のテーブルに並ぶ品々は俺の『いつもの』と寸分違わず一緒のものだった。

「それが君の『いつもの』だったわけだ。ごめんね。お邪魔させて貰って」とにやけ面でNが続ける。

 邪魔だと思うのなら、帰ってほしい。自分の布団の上に土足で寝そべられた気分だ。

 そして俺の気持ちなど蚊帳の外で、Nがさっきの話の続きをする。

「でね、僕が言いたいのは僕たちの日常や時間軸を加味した人生においても、そこまで遠出をしていないということなんだ。僕たちは非常に狭い世界で生きている」

「だから俺の『いつもの』は狭い世界をさらに狭める愚かな行為だととも言いたいのか?」

 俺は厭味ったらしく返したが、聞き流された。コイツは話始めると止まらないらしい。

「人は日常の世界と言っても複数の選択をこなして一日を終えるから絶えず変化があるように感じる。だけどね、そんな選択は常識という凝り固まった殻から飛び出すことなんて滅多にないんだよ。みんないつも安全牌しか切らない。結局人の世うん十年、あっ今は人生百年時代だっけ? まあ、何年経っても同じさ」

「じゃあ、今から宇宙人が襲来してきて地球を侵略するとかを毎日考えてるオッペケペーが、視野の広い人間だとでも言うのかよ」

「それいいね。僕も毎日そんな感じのことを胸に、床に就くよ」

 どうやらコイツがオッペケペーの代表らしい。

「そうやって『いつもの』を摂取し続けた人間はどうなると思う?」

「どうって、安心の老後でも手に入るんじゃないか」

「安心……。君はいつも鋭いね。」何故か褒められた。

「そうした人間はね、そうした日常を自分たちの巣と錯覚するのさ」

「巣?」

 俺はそう返し、珈琲と一緒についているラズベリーソースの掛かったパンケーキを一口大に切り分けて口に放り込み、珈琲を啜る。珈琲はもう大分ぬるくなっていた。

「巣。そう巣。例えば君が行きつけのこの店も君にとっては巣みたいなもんだね。探せば君の卵でも転がってそうだ」

「気色悪い例え話はよせ」

 食事中の相手に言うような内容ではない。

 時間は午後2時を回ったようで、店内から客がぽつりぽつりと減っていく。早く俺もこの状況から抜け出したいが、コイツの話は止む気配がない。

「いいかい、L。自然界で巣を守るために動物は何をするか、分かるかい?」

「何って……そりゃあ、巣を丈夫に作るんだろ」

「攻城戦とかだとそう考えるね。極めて人間的だ」

 今回は不正解を引いたようだ。コイツは一つの正解の上で話を進めるきらいがある。

「L。君の考えは別に間違っちゃいないんだよ。巣を守るために巣を固くする。隠す。移動式にする。どれも立派さ。だけどね、これらは巣の問題だ。一次的なんだよ」

「一次的?」

「人間で言うなら、生まれもった身体、そしてそれに付随してくる要素の全てさ。先天的とも言うね」

 巣の話だったり、動物、人間の話だったりと、一体俺はどこに感情移入すればいいのかわからないが、パンケーキを平らげることはできた。

「僕が言いたいのは二次的な話。巣を守るためにどうするかは、人間が自分という存在を守るためにどうするかということ。」

 Nが組んでいた足を組み換え、こちらに向き合い直す。

「改めて聞こう。君なら敵から自分の心を守るためにどうする?」

「どうって、無視だ無視。自分の心の中には一歩たりとも踏み入らせないのが一番だ」目の前にいる男のことを思い浮かべると、答えはあっさりと出た。

「それだよ」

 Nにそう言われると、先程の発言を思い返してコイツの手のひらの上で踊ったような感覚に襲われる。

「敵を排除するってことかよ。クソ」

「正解」Nはにやけ面でそう返す。法が許すのならぶん殴っているところだ。

「いつもの空間から異質なものを排除する。みんなやっていることさ。人間は他の生き物よりかは温厚かな。殺すまではいかないからね。だけど、警戒だけは欠かさない」

 コイツの話の道筋は見えてきたが、意図は未だに読み取れない。先刻から長針が反対方向に回れば、いつのまにか店は俺達二人の貸し切りとなり、コイツの有難い説法だけが静かに店内をこだまする。

「N、それの何が悪い。人は自分の日常を守るために人生を費やすもんだろ。それを妨げる奴が出るってんなら、当然はねのける。それとも何か? お前は右頬をぶたれて左頬を差し出す神の子の真似事でもしたいのか?」

 俺は煮え切らないNの話と店内の物寂しさに耐え切れず、少し感情を込めてしまった。しかし、Nは相も変わらずすまし顔で返してきた。

「僕はその現状を愚痴ってるだけさ。非力な僕には何も変えられないからね」

 ここまで来て無責任なことをNは口走る。

「僕は憂いているんだ、人類の可能性が潰えることを。日常という縄張りを守るためにしか動けない人々は、自分を変えんとする異物を相手にしない」

「だけど、人はそんなんでもここまで進化してきただろ。毎年ノーベル賞なりを獲る学者先生が新しい発見もする。これ以上何を望む?」

 Nは静かな眼でこちらに一瞥をくれ、そして続けた。

「君は鮎という魚を知っているかい?」

「鮎ってあの塩焼きにすれば美味しい川魚だろ?知ってるよそれくらい」急な話の転換に戸惑いはしたが、普通に返した。

「そう、その鮎だ。彼らはねぇ、とても縄張り意識の強い魚でね、他の鮎が自分の縄張りに入って来ると徹底的に排除しようとするんだ。その一方で、群れを作ることもある。自分の利益に合わせて生き方を変えるんだよ」

「ふーん、現金なこった」と珈琲を飲み干しながら返す。時計を軽く確認して、席を立つタイミングを窺うが、Nの話は途切れない。

「僕はね鮎と人、とっても似ていると感じるんだよ。」

「それは良い。神様が大洪水を起こしても殺しきれなさそうだな」

 Nは、「面白い冗談だ」と言うが、コイツの話の方がよっぽど面白い冗談だ。

「群れたり、離れたり。節操がない。そして、目の前の現象に何の疑問も持たない。知ってるかい、鮎の漁獲方法を。彼らは友釣りといって同胞をおとりにすると、縄張り意識から攻撃を仕掛けて、まんまと針にかかるんだ。人間もきっと同じ目に合うと思うよ、僕は」

「じゃあ俺はお前に突っかからない方が長生きできるな」

 そう返した俺に、「君のそういうところが好きなんだ」と返してくるもんだから、コイツはそっちの気があるのかもしれない。

 マスターが俺のカップが空になったのを見て、「おかわりいかがですか?」なんて言うもんだから、普段から良くしてもらっている手前無下にはできず、もう一杯の珈琲が運ばれてきた。コイツの話から逃れるタイミングをあっさり失った。

「つまりさ。僕たちはどこまで行っても日常の檻の中で見えるものしか見てないんだよ。いつこの世界の人間の上位存在が罠を張るかも考えずにね」

 Nの話に熱が入ってきた。

「だけどよ。想像力を働かした所で次元を超えた存在には及ばないだろ? 漫画のキャラクターは作者を越えられないといった具合によ」

「そうだね。話は少し戻るけど非日常を求めて、画面に飛び込むけど飛び込めない話をさっきしたね」

「あぁ、そうだな」瞳を左上に、四半時前のことを思い返す。

「アレはそもそも提供された非日常すらも日常の産物だったわけだよ。人間が得られる体験はどこまで行っても日常を越えられないのだから、材料なんてたかが知れている」

 話は佳境に入ったようだが、結局Nが何を言いたいのか底が見えてこない。陽は傾き、店の小さな窓からもその姿を拝めるようになっていた。

「それでさぁ……L」

 Nがこちらに向き直る。整った顔立ちが西日に照らされ、その造形を鮮明にさせる。

「僕はこの世界を上位存在によって形作られていると捉えることにしたんだ。所謂、メタ認知って奴さ」

「仮にその存在を認知しても、知覚も出来ない。意思の疎通なんてもってのほかだ。そんな行為に何の意味があるってんだ?」

 至極まっとうな返しだと思う。向こうにいる奴らが俺たちの言うことに聞く耳を持つかもわからないのに、それに話しかけるなんて不思議ちゃんもいい所だ。

「いや意味はあるさ。さっきから言うように創作物は作者の日常を越えられない。ファンタジーにしても本質は日常から作られてて、非日常的要素は他の非日常のパロディか日常からの願望に過ぎない」

「だから、この俺たちの世界も上位存在の日常の上で成立するから、奴らへの働きかけは奴らにとって意味あるものってか?馬鹿馬鹿しい」俺は鼻で笑い飛ばす。

 すると、Nは4つある天井の角に順番に手を振り始めた。なんだコイツ怖い。

「この世界を覗く窓があると思って手を振っているんだ」なんて言うもんだから尚の事怖い。

「まぁ、どんな感じで僕たちが形作られているかは分からないけどね。それでも僕の発言の中で一つでも面白いと思ってもらえれば、それはきっとこの日常を壊す非日常を生むと思うんだ」

 これ以上コイツの話を聞き続けるとおかしくなりそうなので、残っていた珈琲を胃に流し込み、今度はさっさと席を立って会計を済ませる。

「ねぇねぇ」Nが去り際の俺に話しかける。

 俺はぶっきらぼうに「なんだ?」と答える。背は向けたままだ。

「今回の話で気に入ったのはコレだったみたいだよ」

 そう言うNの指す先は俺がさっきまで座っていた席で、丸く透明で湿った物体が積み重なっていた。

 踵を返し近くで観察してみると、生臭い。どうやらこれは魚卵のようだった。

 はたと思い自分の尻の辺りを触るとどうも濡れている。まさか、いやしかし……!?

「俺が……産んだのか…………?」

「日常を楽しむ君の縄張りには、卵がやっぱりあったみたいだね」