お馬が時々来る日記

コンドロイチン配合

徒然アソシエーション

 徒然なるままにひぐらし

 これを枕詞に、己の心の有様を飾らずに描き、一つの物語として完成させた吉田兼好は上手くやったものだ。あれもこれも、99%の才能と1%の環境によるものであるのだろう。

 現代、いや現在人の私にとって創作はとても不自由なものだ。己が敷いた枷に雁字搦めで、指一本動かすことすらままならない。日夜、種種雑多な作品が電子の海に投げ込まれていき、その数は衰える所を知らない。そして、ジャンルによる嗜好の違いが存在するものの、根本的な良し悪しは見え隠れしている。誰にしてくれと頼んだわけでものないその批評は、自身に先導して行われ、その稚拙な正体を赤裸々にする。もちろん、自分の作品もその対象である。

 創作物への評価は、他作品を知ること、構成における慣例を知ること、社会の風潮を知ること、自身を知ることでその形は十人十色に変化する。他人と自分、もちろん他の第三者との間においても、その評価が一致することはない。そこが創作の楽しさであると同時に、心の葛藤を生み出す要因なのである。

 私は創作の時に心掛けているものとして、面白さに重きを置く。どんなに高尚な作品であろうと、どんなに奇跡的な事象が重なって生まれた事実であろうと、他者に見せる以上エンタメな訳であり、開始三行が退屈なおフランスの自慢話であれば誰もがページを繰る手を止めるであろう。その根幹があるからこそ、自身の拙い創作観でも創作が出来ている訳だ。問題はここで言う面白さを、本当に形作れているかという点である。

 もちろん、描いているときは面白いと思って書いている。しかし、集中が切れたタイミングで自動アップデートのように評価が始まる。構成に無理は無いか?他者のネタと被っていないか?倫理的にマズイものではないか?テクニカルな作品であるか?毎回だ。毎回のようにこれが起こる。面白さだけを求めて描く世界もこうした評価観点で縛られてしまうと、途端に手が止まる。それ以降の柔軟性は失われ、箱詰めの物語が始まる。結果、完成した作品は序盤の勢いを喰い殺された哀れなものとなる。

 こうなる原因は、自分の中で大体見当がついている。それは、知識の吸収方法の誤りにある。よりよい創作を行うため、私は今まであらゆる情報に目を通してきた。知識量で言えば、創作をあまり行わない人よりはある方であろう。しかし、それらの知識を吸収すると同時に、どう区分して記憶するかどう扱うか、この二点を考慮していなかったのだ。どんなに優れた武器であろうとも、その扱い方を知らなければ獣を狩ることはできない。かえって、その扱えない武器にばかり気を取られてしまい、目の前の獣から目を逸らしてしまう。獣を狩るどころの話ではない。

 知識が創作を縛ってはならない。現在の私の有様は、「創作は自由である」とした私の信条に反する。あくまで知識は創作の導き手ではない。創作された道を整備するためのものなのである。いつの間にか誤った扱い方をしていた自身の愚かさを恥じ、猛省する。ってかこの話し方も自由な創作では必要ないと思う。もっと自由に、もっと楽しく。いつの間にか忘れていた感情をここに取り戻そう。ペンを握る手はいつまでも歩みを止めることはない。いつかの兼好に思いを寄せて、徒然なるままに…。